ユヅキ小劇場

2021年07月

我輩は人見知りである。

未だに治らない。

ふと思ったけど、この

「人見知りが治らない」

という表現も下手したら何かしら叩かれるのかな?

「治らない」という表現は「治さなければいけないモノ」と決めつけている!

みたいな。

そんな穿った考えが浮かぶくらいには2021年夏の世界は、正義だか正論だか倫理だかを証明することが全てみたいなところだ。

昔好きでやり込んだタクティクスオウガというゲームで、敵が絶対にこちらを攻撃できない安全を確保してからひたすら石(ゲーム内では武器扱い)を投げていたが、SNS上にはそんなプレイヤーが群れをなしている。

ゲームと現実は違う。

でもSNS上に存在する自分をゲームと同じ仮想プレイヤーの感覚で使っているやつが多い。

結局は想像力。

SNS上で他者に対して何かを投げ掛けたその時点で責任はあるのよ。

面と向かっては言えないなーと思うなら飲み込むのが吉なのよ。

声をあげるのが大事とか宣うならその石を返す場所を明示してから投げてくれ。

投げっぱなしは良くないって人に言う。

責任取れって人に言う。

じゃあ翻って己も同じことを言われてもいいようにしておくのが筋だ。

一番の解決はほっておく。

これに尽きる。

こんなことを書きたかったわけじゃねーんだよな。

人見知りについて書きたかったのよ。

くそう。

行ってきます。

 

 

やれることよりやれない理由を探した方が早い。

これがデフォルトになると途端にアクティブさが失われる。

歳を重ねると新しいことを始めづらくなるのは

やれない理由(リスク)が増えてくるから

これに尽きるのでは。

また大抵の人は年齢を重ねるごとに抱えるモノ(人や肩書き、家族など)が増えてくるので、よく言う

「自分だけの身体ではない」

状態になるしね。

気楽な独り者ですらやれない言い訳を見つけるのには事欠かない。

結局のところ大した損得勘定じゃないのに何故かそれを先んじて思考して足踏みする。

足踏みすると今度は忘れていく方向へ。

毎日色々なやってみたい、やってみようかなが浮かんでくるのに、1ヶ月後に何か一つでも始めていた試しがない。

いや。たまにはある。

あるけども、続いてはいないね。

思い付いてとにかくやってみる。

続くか続かないかってのを考えるのも正直ダメよね。

それもやっぱりやらない方が楽だよなーってなっちゃう。

ここ最近の自己嫌悪における結構な範囲を占めるこのルーティン。

思い付く⇒盛り上がる⇒ちょっと待てよ?⇒続くか?⇒あれもあるしこれもあるし⇒もう少し考えるか⇒まあいいか

まさに負のスパイラル!

単に俺がダメなやつってことかな。

思い付いたらまずはやってみる。

この単純な思考をとにかく定着させること。

これだけできたら随分変わるよな。

そして誰かを巻き込みたくなる己の弱さ。

まずは自分一人で。

さあ場当たりだ。

いってくるぜ。

 

イラついている。

こういう時いつもどうすれば最善の道なのか考える。

相手があやいちなら沸き上がっている感情のままにぶつけるだけ。

だが、普通はそうはいかない。

仕事は一人ではできない。

たくさんの人との関わりがあってこそ成立する。

いい空気というものは存外大切で、座組の空気が悪いとそれはお客さんにも伝わることも往々にしてある。

芝居だけ仕事だけきっちりこなせれば良いということでもないのだ。

目には見えない良い空気というのは少なくとも伸び代につながることを俺は知っている。

馴れ合いではない良い空気というものはなかなかに難しいけども、それが存在する座組は間違いなく良いモノ作りをするだろう。

で、冒頭のイラついた時の話。

※今抱えてるイラつきは座組内の人ではないので悪しからず

イラついてますをきっちり出すことは果たして現場にプラスに働くだろうか。

そりゃマイナスよね。

そうなのよ。

マイナスなのよ。

でもイラつくことってあるじゃん?

ミスは誰にでもあるし、自分だって色々やらかす。

結果的にお客さんにいいモノが届けられるなら俺らの感情やら人付き合いなんかどうでもいいのだ。

そう割りきればイラつくことがマイナスにしか働かないと知っているならイラついても仕方ないという結論になる。

でもイラつくもんはイラつくもん。

みんな上手いことやってんだなぁ。

そんなわけで今現在のわたくしはイラついております。

でもこうして文章で吐き出すことで結構内面の感覚は変わるもんでね。

今は書きながら

「イラついてもどうせやることやらなきゃいけないんだし、ブログ書く時間取れたと思えばいいんじゃね?」

とか思い始めてる。

まあ上手くやる人はこんな誰でも読める身バレ全開のところに書かないか。

となるとまた一つ疑問。

例えばこの文章を俺と関わる人が読んだ場合、どういうことになるんだろうか。

いいことにはならないという予測の元にみんな上手くやろうということになるんだよね。

果たして悪いことになるのだろうか。

、、、、、、、

なるか。

でもそれでずっと引きずることないと思うんだけどな。

直接言わずに他で発散するからよくないのか。

でも直接

「あんたにイラついてるぜぇ?」

と伝えたらアウトでしょ?

てことは、

・イラついても表に出さない

・裏アカ?みたいなので好き勝手発散する

・もはやイラつかないよう達観

という選択肢になる。

、、、、、、、

いやぁムリだな。

どうせイラついたって長くて半日くらいだろうし、何日も続くようならケンカするだろうし、そんなにイヤなことにはならないと思うんだよな。

仲が良くてもイラつくことはあるじゃん?

あとは伝え方か。

イラついていることを態度で示すってのがなかなかね。

「言いたいことあったらハッキリ言えよ」

って都合のいい言葉。

「言いたいことハッキリ言ったら問題が解決すんのか?」

っていう応えも都合のいい言葉。

「言いたいことハッキリ言ってケンカしても結局いいモノが出来て一緒に飯を食える」

これかな。

どうかな?

あ。

イラつき収まった。

さあやることやろう。

おつかれーい。

 

仕込み日の朝は大抵絶望から始まる。

基本的に全て手持ちで行くことの多い自分。

人一人が持ち運びできるキャパなんてたかが知れている。

だが殆どはそのキャパなど軽く超えている物量だったりする。

それでも常に車使って搬入するような人に比べれば全然ないんだけど。

たまにどうしても無理だな、、、という時は前もって持っていき舞台監督さんにセットと一緒に預けるか、最悪劇場最寄り駅のコインロッカーにブチコム。

でもこのコインロッカー作戦はオススメできない。

おそらくは何も起きないとわかってはいても

「明日行ったら機材なくなっているんじゃないか?」

とオチオチ夜も眠れなくなるからだ。

一回預けた日の夜に想定を越える勢いの台風が上陸し、翌日ロッカー内が浸水していたこともある。

怖い。

本来なら搬入用トラックに家まで来てもらって積み込むのが一番なんだが、、、

都内からまあまあ離れたところに住んでいることもあり、なかなか人にものを頼みづらいマンからするとハードルが高いのだ。

それでもよっぽどの物量の時はお願いすることもあるけども、

「これ、一人でも死ぬ気になれば運べるんじゃね?」

的な絶妙な量だとどうしても二の足を踏んじゃうシャイな思いやりマン。

舞台を成立させるために必要なものなんだから遠慮などする必要はないんだぞ!

それはわかってる。

わかってはいるんだ。

でもよ。

でもよーう。

10分経ったんでまた。

 

 

 

台詞を何となく変える役者に問いたい。

純粋な疑問だ。

脚本には当然その書き手が存在する。

役者からしたらその一行、その一言にどんな思いが込められていて、どれどけの時間や思慮、苦悩があったかは解らないのかもしれない。

解らないのはまあ譲るとして、

同じようにエネルギーを使って解ろうとしてるか?

って話。

何となくで変えている?

言いづらいから変えている?

自分の感情的にその言葉が出てこない?

何なら変わっていることに気付いていない?

俺はイヤだね。

まずは真っ直ぐ、そのままの作家の言葉を入れること。

そのままの作家の言葉を一字一句そのまま口から吐くこと。

その作業をやってから初めて自分を出すんだ。

いきなり「自分は人とは違う」みたいなよくわかんねー感覚で変化球投げようとするんじゃねぇよ。

真っ直ぐできっちりストライク取れる自信と確信持ってから自分の持ち味発揮しろよ。

個性とかそんなもん狙って先に捻り出すもんかね。

意図も意味もエネルギーも使わずふんわり言い回し変えて、「これが自分の芝居」。

わかんねーよ。

もしかしたら、台詞を一字一句きっちり言えることって大事なことではないのか?

そこがスタート地点じゃなくても良い芝居が出来るんか?

ニュアンスや雰囲気さえ合ってれば大差ないもんできると普通に思っている人は結構いるのかな?

特別なこと言ってないと思ってる俺が意外と間違ってるってセンもある。

そんなことないだろとは言い切れない程度には見てきている。

変えることがダメって訳ではない。

その本を書いた作家に面と向かって胸を張って

「こういう意図と意味があって、あなたのエネルギーに負けないエネルギーで変えました!」

と言えればいいんだ。

それならいいんだよ。

ただそんだけなんだよ。

「台詞を一字一句間違いなくお客さんに伝えられる」

これって標準装備なんだとずっと思ってきたんだ。

ひのきのぼうとぬののふくなんだと。

リアルな話、どうなんかな?

 

眠い。

だが気分は悪くない。

寝る前に好きなヤツと話したからか。

電話キライを公言しているヤツに付き合わせてしまい、申し訳ない思いで心がホットココアを飲んだみたいな感覚だゼ。

贅沢言うなら布団に転がってのんびり話すなら天気のいい予定も何もない真っ昼間だったらもっと最高。

深夜だとどうしても闇に引きづられるからね。

電話自体は苦手なんだが、まあ相手に寄るということ。

その先に仕事が絡むとどうしても慎重にならざるを得ず、また意外と心証を気にする質の俺。

人からどう思われようが関係ないね!

これは仕事をする上ではなかなかの摩擦を生む。

トラブル上等を謳ってはいるが、実際のところ楽しめるトラブルなら歓迎ってだけで、建設的でもないただのドンパチみてーなトラブルは望んじゃいない。

だから言うほどめんどくせーことにはここんとこはなってはいないはず。

まあ俺個人の感覚では。

迷惑かけていいのは友達まで。

友にはまさに迷惑以外何物でもないマイルール。

一部改めようとは思っているが、基本線は変わんないかな。

マジで申し訳ないなとは思う。

結局、

そんな友達がいるんだゼ!

ってことを自覚、もしくは他に知らしめたいだけなのかもな。

ケツの収まりがワルい話さ。

オーライだ。

いってくるぜ。

 

 

今現在、絶賛自分がキライ期間中。

これまで生きてきてそれなりに色々と自己嫌悪に陥ることや自分自身が許せないなんて中二病も拗らせてはきたが、今回のはまあまあしんどいレベル。

とはいえ、深度でいったらこんちゃんのことに比ぶれば些末なことではある。

比較にもならんくらいなのではあるが。

問題はこの自己嫌悪が

「明確な事象や事柄があるわけではない」

ということ。

そう。

「特別何もないのに」沈むのだ。

鬱というものがどういう感覚かはわからないし、何なら精神科医には舐めてると怒られる始末なので鬱ではないはず。

今のところしっくりくるのは

「五月病がデフォルトになった自分が気持ち悪い」

という感じ。

そうなんだよなー。

仕事はしてる。

演劇にも関わってる。

音はいじってる。

音は出してる。

でも生きてる気がしない。

作品を作ってないからか?

俺のやりたい好きなことって。

それすら曖昧になって毎日の流れの中でやらなきゃいけないことをこなすだけ。

ありがちな話よな。

マンガとかなら自分リセットして海にでも繰り出すストーリー。

でも向かってるのは稽古場。

楽しくないわけじゃない。

そういうわけじゃない。

でも身体が重い。

さあいくゼ!って立ち上がれない。

まるで萎びたマックのポテトの気分だゼ。

さあ行こう。

イかないなんて選択肢はないのだから。

あの頭のてっぺんから飛び出しそうな魂を命がけで抑え込んであやいちに全部ぶつけてたような芝居。

あれがやりてーのかな。俺。

 

俺は台詞覚えは良くない方だと思う。

だから基本的なやり方は至極単純。

とにかく音読。

ひたすら音読。

覚えきるまでに大体目安は100回。

実際には100回いく前に頭には入るが、口に馴染むまではなかなか。

普段頭で考えて口から吐く言葉は意識したものであればあるほど台詞臭くなる。

逆に何も考えないで反射で出るような言葉はとてもナチュラルな響きとなめらかな口滑り。

ナチュラル芝居、大層な芝居、ファンタジーな芝居など色々ジャンルはあれど、どんな言葉を吐く時でも口と細胞に台詞が馴染んでいればあとは感情やら演出やらで変化していくだけ。

だから自分の台詞覚えの原則は

「とにかくアホみたいに口から吐き出して台詞を口に馴染ませる」

ことからスタート。

演出する時も基本線はそうやってもらう。

台本の一字一句をお気楽に変化させて気にも留めない奴は好きではない。

本に込められた想いを大切に扱う。

 

 

失踪してーなーなんて思った2019年冬。

結局何も変わらず今に至る。

あの時の想いは何だったのか。

何も変わらず、というのは全てに適用されている。

人への想いも消えたい気持ちも己への戒めも。

それと同時にジクジクと染み渡る自身への嫌悪感。

そんなあらゆる感覚を抱えながら仕事は仕事だとやることがオトナだなんてぬるい顔して息してる。

ふと気がつくとどうでもいいことに時間と思考を放棄してただの肉の塊と化す。

こんなもんを抱えながらずっと生きてきてる奴はすげーんだな。

俺は良くも悪くも周りに恵まれてきたんだなと今更。

そのありがたいチート任せでやってきた末が今ってこと。

好きに生きるってただの思い込みと迷惑行為なのかもな。

やり方間違えたくねーなー。

ケツの収まりが悪い話さ。

 

本日七夕は、とある人の誕生日。


付き合いとしては随分長くなったが、実際に対面した時間はそう多くない。

今はしっかりとした人生を歩んでいるようで、俺よりもずっと現実的でオトナだったなと思う。

人の誕生日というやつは何ともテンションが上がるイベント事。

それが好きな奴なら尚更だ。

生まれてきてくれてありがとうなんてクサイ言葉も誕生日ならオーライさ。

自分の誕生日は割とどうでもいいが、人の誕生日は蜜の味。

お祝いするのもプレゼント渡すのも全部自己満足であることも否めない。

でも「人のために」という綺麗事を押し通すには絶好のナイスデイ。

とどの詰まり、テンションが無条件に上がる楽しい1日ってことだ。

そんなわけで昨日からどうやってプレゼントを渡そうか悩みに悩んだわたし。

どんなプレゼント

ではなく

どうやってプレゼント

というところに難しさを感じてくれた人は優しいね。

まあ今はリアルで会ったこともない人に何かを贈る手段など豊富に用意されている世の中。

今回はそのテクノロジー?にあやかって、LINEギフトというやつを贈ることに。

思いの外 選択肢が多いことに戸惑いつつも、どんなプレゼントがあるか選ぶのも楽しい。

関係性と金額のバランスって永遠の命題だよね。

贈る側の見栄とかも絡んでくるのかなと考える辺り、己の器が知れるというもの。

カッコつけ精神というやつはマックのポテトを食べたくなるくらいの頻度で感じるもんだ。

いつかは払拭できる類いのものだといいが難しいだろうな。

そんなこんなで今回は様子見も様子見でからあげくんとかハーゲンダッツ辺りに落ち着きました。

食べたい時に買えばいいし、重みも感じさせないなかなかのチョイス。

あとはどの程度の数を贈るかのみ。

しばらく色々な人で試してみたいと思う。

昨年誕生日プレゼントで怒られた苦い思い出を繰り返さないように試行錯誤するゼ。

とにもかくにも、誕生日おめでとう。

良い一年を祈る。

そして生まれてきてくれてありがとう。

 

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