ユヅキ小劇場

2021年11月

初めて音響オペレート(舞台本番で実際にミキサーや再生機を操作して音を出す)をやった時を思い出している。

場所は今は無き「池袋小劇場」。

客席100弱、桟敷席のみのレトロな小屋だった記憶。

機材は借り物の再生用MDデッキとサンプラーSP-303、小屋のミキサーとスピーカーbose101×2。

間口だけ広くて天井は低かったような気がする。

そして隣は風俗店が多数入っているビル。

何というか、、、退廃的な感じだった。

初めての音響オペは本気でプルプル震えていた。

怖かったのだ。

ボタンを押したらもう取り返しがつかない音という武器が怖かった。

役者の時は緊張はすれど怖いとは思わなかった。

舞台上に出ていけばもうあとはやるだけだ!

みたいな感じ。

でも音響の時はやるだけだ!とはならずに

「まじでやるの?」 

みたいな。

全然感覚が違ってたなぁ。

間違った音を出したらもう終わりっていう恐怖と想像だけが己を支配していた。

そんな初オペ。

芝居を見て合わせるとか空気読むとかの次元ではなかったと思う。

そんな頃を思い出した今。

またオペってきます。

確認よーし!

いってきまーす!

オトナになったなぁと思う瞬間ってあるよね。

実際はコドモのままなんだけど。

とある事件?が起きて思わず笑ってしまった。

ケーブル切断。

今まで断線はあっても切断は初めて。

キレイな切断面を見て頭の中に火曜サスペンスのテーマが流れたよ。

「見てください。これは鋭利な刃物で切られています。」

「現場の状況は?」

「これは推測ですがおそらく、、、」

etc...etc...

まあ結果的に間に合ったから何でもいいんだ。

結局はそこだけ。

お客さんにいいものを届けられるように最善を。

いいんだったら書かなきゃいいじゃんって?

だって面白かったんだもん。

「オイオーイ(笑)」

って声に出ちゃったくらい。

ネタとしては引き出しにインさ。

そして自身の至らなさにも目を向けるいいきっかけ。

自分にとって当たり前になっていることでも知らない人は知らない。

そんな当たり前のことを今一度。

ではではまた。


演技って何だろう。

そんな哲学みたいなことをたまーに考える。

役者やってる人はよく考えるんだろうか。

演技というもんに触れ始めた頃は何となく

「何かやらなきゃいけない」

もんだと勝手に捉えていた気がする。


役の違いや役割は違えど根本的には台本と役は与えられる。

その与えられたモノをどう自分がやるか。

これがその内、

「他者ではなく自分だったらどうやるか」

こういう思考が出てくるのだ。

何なら他者との違いを出すことこそが自身の個性やアイデンティティーに繋がるのだ!

みたいな勘違いね。

もちろんオーディション勝ち抜くとかゴリゴリの競争現場でそれが求められている場なら全然健全な思考なんだけども。

もう出ることが決まっていて役割も与えられている、それでいて競争しなければいけないわけではない現場ならば、その思考は割りと作品にとって不純物なんだよな。

そりゃどんな作品でも爪痕残したいとか自身の成長を考えたいとかの向上心は全然あって良いんだけど、それは個人の都合でやってほしいところ。

あくまで作品は作品としての完成を考えてその場の自分を創っていってほしいなぁと思うのだ。

自分だったらこうやるー!

とか

こうすることが俺という役者なんだー!

とか

この台詞をこんな風に解釈してこう見せるんだぜー!

とか基本全部いらねーのよ。

正確にはそう思いながらやるってのが要らない。

やるのは全然いいし、成立してるなら勿論大アリ大歓迎。

ダガシカシ。

まずやることはそこに在る台本と台詞をそのまままっすぐやることなんじゃねーかな。

野球のピッチャーが最初はストレートから覚えて投げるように。

始めたてでいきなり変化球投げるやつなんて殆ど使えねーだろうし。

それが個性で大成しちゃうタイプなんです自分!だって天才だもの!な人はそれでもいいかな。

でもそう考えてるわけでもなさそうなのに、最初から変化球を一生懸命投げようとする人がまあまあいるよねって話。

もしくはどうやったら変化をつけられるか?が主流の思考になってる人。

まずは台本にあるモノだけをまっすぐそのままやってみないかい?

自分なりにとか個性をとか抜きにただそのままやってみる。

まずはそこからなんじゃないのかなーと。

それをすっ飛ばして台本に書かれていない言葉をイキイキと発したり、ト書きにない動きをいきなりやったりする人は、大抵台本に書かれていることは疎かにする。

それでもそんなことないよ!って言い切れる人はもう作家を舐めてるよね。

役をもらったらもうその言葉は自分だけの所有物みたいな扱いする奴マジキライ。

自分の言葉なんだから、言いづらかったら言い換えても意味は通ってるからいいよね?

自分の気持ち的にこの言葉は出てこないんだよねー?

何なら台本と違う言葉ずっとしゃべってるけどそのこと自体気付かなかったー?

演出から何も言われないからオッケーなんだー?

舐めてるだろ。

自分はそんなことないと自信を持って、もしくはそんな奴いるの?とホントに思える人はいいさ。

でもそんな感じの人でも実際の芝居では作家や作品の言葉を蔑ろにしてることも往々にしてあるよ。

間違っちゃうのはいいのよ。

噛むのもまあダメだけどいいのよ。

問題なのは

書かれている言葉に真っ直ぐ全力で向き合って飲み込んで理解しようとして誠実であろうとしているか否かなのよ。

その上で噛んだとか言い間違ったとか演出上どうしても変えなきゃいけないとかは全然いいのよ。

その努力、、、てかそれが最低限の役者の仕事だと思ってるけど、それをしないで全力で芝居をやってます!とか言う奴マジキライ。

この台詞いつも出てこないんだよねー。

この台詞言いづらいんだよねー。

ネタとして身内で言ってる分には全然オッケー。

ネタでも何でもなくホントにお客さんにまでそのまま持ち込んじゃうならそりゃもう怠慢なのよ。

言いづらい台詞なら100回間違えないように意識しながらゆっくり音読すりゃ誰だって言えるようになる。

ダメなら200回。

ダメなら300回。

言えるようになるまでやりゃ口からスルスル出るようになるゼ。

そこまでやって出ないんならそれはもう役者に向いてないってことではないかね。

台詞をしっかり言えることだけが役者としての魅力じゃない!って例もそりゃあるけどもよ。

各々それぞれの勝手じゃん?ってのも重々承知してる。

俺個人の考え方じゃん?

そりゃそうさ。

でもさ。

もったいないじゃん?

頑張ってないわけじゃない。

一生懸命じゃないわけじゃない。

手を抜いてるわけでもない。

でも舐めてるってことに気付いてもいない。

いい表情もする。

いい声も出す。

いいテンションまで上がる。

グッとくることもある。

でも。

言葉が滑る。

作家の想いや狙いをすっ飛ばしてる。

役者のスキルを足すことだと勘違いしてる。

結果伝わるものは本来届くはずのモノの何割になっちゃうんだろう。

届かないところじゃなく届くはずのところまで行けないまま終わっちゃうのは寂しいと思うのよな。

仕事とは関係ない俺個人の思考でした。

ではではまた。










眠い。

久しぶりにこんなに眠い。

なぜかって?

徹夜してそのまま本番やってこれから通し稽古に音だしに行くからさ!

いや、まったく誇れることではないんだけどね。

むしろダメなやつなんだけど。

無茶してる自分に酔っちゃう時期って皆あるのかな?

俺は多分ゴリゴリにそのクチだった。

周りや大事な人の心配をよそに、、、もしかしたらその心配さえも鬱陶しいくらいに変換して頑張ることこそがカッコいいみたいな。

うわぁ、、、

かっこわりぃ、、、

恥ずかしいよ。

そういうところが今の現状を招いた大きな要因であることは間違いない。

もっとああしとけば。

もっとこうしとけば。

タラレバは犬も食わないとは言わないけど、感覚的にはそんな感じ。

言ってもしょうがないけど言いたくなっちゃうのが人間の性っつーか。

何ならタラレバが通用していたらどうなっていたかなんて幸せな妄想しちゃうことすらあるんだゼ?

相当痛いゼ?

でもまだ大丈夫。

ちゃんとこの痛みを感じている。

怖いのは痛くなくなることだ。

何ともなくなることだ。

何ともないと思おうとすることだ。

身体だけ生きながらゆっくりと内面から死んでいく、、、それはイヤだ。

もちろん身体を大事にすることは大前提だけども。

心にずっとモヤがかかってんだよなぁ。

テンションあがんねーんだよなぁ。

しょうがないよねー

って諦めて着地したくない。

誰しもがいつかはどこかに着地して根をはって生きるんだろうけど。

俺はまだ飛んでいたい。

降りたいと思える場所を作れるまでは低空だろうがバタ足だろうが浮いていたいんだ。

そう。

これが寝ていない時のテンションでモノを書くってことだ。

夜中にノリにノッて書いた脚本を次の日たっぷり寝た後に読んだ時襲いくるあのなんとも言えない地獄を味わうってことだ。

じゃあ書くなよって?

寝たら電車乗り過ごすから書いてんだよ!

文句あるかー!

読んでくれてありがとう。

またね。




慣れていくのが怖い。

慣れたくもない。

飯は食うし寝るし生きることはやめないけれども楽しくはない。

そんなことを思っていても何にもならないのはそりゃ解ってるけども。

どうにもなぁ。

やることはやるし、面白いこともあるけどなぁ。

これが果たして思い込みなのか本当なのか。

また年を越しちゃうな。ふと。ふと。

小劇場ではブース(音響照明の調整室)が客席の後ろで一体化しているようなところも少なくない。

当然スペース的にも狭いことが多く、どうしたって音響と照明のオペレーターさん同士の距離は近くなる。

パーソナルスペースなんて言葉があるように、人は一定の距離内に他人がいるとどうしても気になるもので。

自身も例に漏れずとても気になるタイプ。

元々人見知りなので割と同空間にいる人間の心情や機微に敏感なのだ。

考えすぎなところもあるけれどもね。

少なくとも数日から一週間程度は一緒にいることが多くなるので、ある程度は話せるようになっておきたいというのが本音。

とはいえ初めましてだとねぇ。

探りを入れるにしても仕込みや場当りの段階ではお互いにメインは仕事作業になるので、そんな心の平穏をゲットすることに神経を使うわけにもいかず。

そうなると結局ちゃんと話せるのは初日終わってからとかになるのよ。



この取っ掛かりの一言目を発する時の緊張感といったらもう。。。

気楽に話しかけてやんわり会話するだけじゃん?

理屈は解るんだけど。

なかなか人見知りマンには厳しいものがあるね。

とりあえずガンガン話して反応見て対応考えるマンなのでまあ何とかんとかやってこれたけども、これからもそううまくいくとは限らない。

そんな演劇関係ない部分に脳内のリソースを割いてるってことが人にバレてないといいけど。

人付き合いは難しいね。

ではではまた。

舞台音響に関わらず、舞台照明さんにもあるのが、

「プランやチーフとオペレーターが別」

というパターン。

プランはその名の通り全体をプランニングする人。

チーフは現場で主に軸となってセクションを回す人。

オペレーターは実際の機器のコントロールを担う人。

ザックリいうとこんな感じ。

小劇場サイズだとチーフとオペレーター二人でやることは殆どないんじゃないかな。

プランとオペレーター二人体制はよくあるけども。

その場合は大抵サウンドチェックや場当たり、ゲネくらいまではプランが実際のオペレートを見聴きしながら調整を二人でやったりする。

完全にプランだけ立ててあとはオペレーターにお任せ!って時もたまーにあるけど、これは割りとオペレーターは困るかな。

まあ任せてくれるという時点で自分なりにやっていい(もちろんプランの意図や意向を実現させるために)わけだから変に考えなくてもいいのだろうけどね。

自分はプランだけやることはあまりないが、例えば予算の問題や勉強の意味で自分以外の人がオペレートすることがないこともない。

そんな時の心境をまあ一言でいうと

「不安」

これに尽きる。

別にオペレーターができるできないとかそういうネガティブな不安ではない。

それはもうやるとなったらみんなちゃんとやってくれるからね。

じゃあ何が不安というと

「自分が何とかできないことがあり得る」

という一点。

本番に毎回ついているわけでもないし、すぐに連絡が取れるとも限らないわけで。

そんな時に何かトラブルがー!なんて考えるとそりゃ不安よ。

任せるしかないのは解ってる。

でもでも。

元々何事も自分でやった方が良い!というタイプなのでなかなか人に任せることに慣れががていないというか。

そんなこともあって、自分がオペレーターの時はプランナーさんの気持ちを変に想像してしまうというワルいクセが発動するのだ。

「実は納得いってないんじゃないか」

「実は怒ってるんじゃないか」

「妥協してんじゃないか」

等々ネガティブ思考のオンパレード。

自身がプランナーの時はそんなこと思わないんだから、その思考がおかしいなんてのは解るんだけどなぁ。

あれ?

結局プランナーでもオペレーターでも不安なんだな。

自分への自信がないんだろうなぁ。

とはいえ仕事はちゃんと。

いってきますー。

ではではまた。

生理現象は抑えられないことが大半。

ダガシカシ。

それでも抑え込まなければならない時がある。

そう。

本番中だ。

更にいうなら静かなシーーーンとした時だ。

音響をやっていると割りと音やノイズには敏感になるんだが、人間が発する音も漏れなく気になる訳で。

お客さんの咳やくしゃみはしょうがないよねーと思う。

そりゃ気にして我慢してくれたらありがたいけれども、故意ではないのだからそこはもう諦めるもの。

これが自分となると話が変わってくる。

「オイオーイ!空間の音をコントロールする(大袈裟)この俺が世界にノイズを撒き散らしてどうするんだい!」

なんてことを考えてるわけじゃないけど、割りと近しい感覚はあります。

要は不要な音でお客さんの集中力を切りたくないだけ。

ダガシカシ。

わたしは割りと咳持ち。

長らく悩まされている鼻炎の影響でちょいちょい咳の野郎が出現しようとするのだ。

薬で抑えたりあれやこれやと対策はするものの100%出ないとは言い切れないのがカナシイところ。

だから基本的にはいつも音のプランの中で

「咳ポイント」

なるものをピックアップしておく。

「咳をしても気にならないところ」

つまり爆音が流れていたり演者が言い合いするシーンなどお客さんの耳に大きな音が届いている状態の場所を見つけておくのだ。

お客さんの中にも割りとその辺気にしてくれて、ブリッジ(シーンとシーンの切り替わりなどに流れる音楽)まで待ってから咳やくしゃみをしてくれる人もいる。神。

自身もそんな感じで咳が出そうになると何とか咳ポイントまで我慢するのが通常なのだが、、、

如何せん、咳ポイントが全く無い舞台というのもあるのだ。

最初から最後まで盛り上がるような音楽もやり取りもない静かーな会話劇とかね。

もうこうなるとピンチの連続ですよ。

皆さんもそうだと思うけど、咳やくしゃみの類って我慢するとパワーアップするじゃないですか。

ドラクエとかの「力を溜めている」みたいな。

咳の野郎は小出しにしてガス抜きしてやってもそれ以上のパワーを溜め込みやがるので、開放した時のエネルギーが半端ないのよ。

それを知っているからこそ余計出したらやべー!となるので我慢する。

奴のパワーは増していく。

小出しにして誤魔化す。

無理。

死のループ発生。

一発ドカンと出しちゃえばそれで治まることが多いので咳ポイントさえあれば何とでもなるのだが。

この問題は舞台の仕事をやっていくなら常にどのセクションにも付きまとうこと。

ブースが完全に隔離されてる劇場ならいいけど小劇場ではなかなかね。

そんなわけで何か良い咳対策(即効性)があれば教えてください。

割りと切実です。

ではではまた。




演劇などの舞台でお客様を迎え入れる時間帯に流れている音楽「客入れ」。

音楽に限定されず、効果音であったり環境音であったりと芝居の内容や演出次第で様々なモノが使われる。

中には無音なんて舞台も。

意味のある無音なら良いけれど、大人の事情で無音にせざるを得ないなんて時は何だか悲しくなるのはご愛嬌。

客入れの音で気を付けたいのは

「不快にならないこと」

この一点。

もちろん意図的にそういう狙いでやって欲しいという時は別だけど、基本的には快適な、、、というより「特に何も気にならない」のが第一かな。

「あ、この曲知ってるー!」

とかは全然いい。

「この選曲は芝居本編と何か関係あるのかな?」

なんて深読みしてくれるのも全然いい。

気を付けるのは

「うるせーな(音量的な意味で)」

とかの基本的な部分。

人によっては曲と曲の間の無音が気になるって人もいる。

これは好みだと思うんだけど、確かに市販されているCDアルバムとかをそのまま流すと曲間が長いなーと感じることは多い。

その辺はちょこっと削ったり、場合によっては一繋ぎにMIXしてみたり。

著作権云々もあるので一概には言えないんだけども。

客入れ客出しの選曲や内容を全く考慮しない人も割りといるので、その辺りはホントに各々それぞれとしか言えないかな。

あんまり尖ってガチガチに考えすぎるのも良くないけど、ある程度は芝居本編にいい意味で影響を付与できるようなものだといいなーとは思っている。

まあ中には全く聴いてないなーってお客さん層の時もあるけどね。

とにもかくにもやれることを最大限に。

そう在りたいね。

口数なんてのは性格に依存するものなので各々それぞれとしか言いようがない。

自身はというと、今現在は多い部類に入ると思う。

話好きかと言われたらそこは自分でもよくわかんないかな。

というのも学生時代は

無口こそが己のアイデンティティー!

みたいなとこがあったので。

要は中二病ね。

実際には独りぼっちはイヤだなと思っていたと思う。

でもそんな心を覆う勢いで

自分とはこういう人間だ!

という思い込み?を完遂しようとしていた気がする。

何なら孤高孤独こそカッコいいと考えていたのかも。

そんなのは創作やマンガアニメの世界の話なのにね。

一人じゃなきゃ強く在れない。

他人を頼るのは弱きものだ。

根拠も何もなくそういう感覚で生きていたなぁ。

文字で書くとマジデキエタクナルネ。

正直今でも口数多くしてる時は無理してる時ってことがあったりなかったり。

割りと沈黙が苦手なのでとりあえず何か喋っとこうと口から音を発しちゃう感じ。

元々ガツガツ突っ込む系の人見知りマンなのでとりあえずで喋るのは苦じゃないのだ。

まあこういう「適当な合間を埋める為だけの実のない話」をスルスルとやってきたのが枝分かれの自身を作り上げたのだろう。

逆に話さなきゃならないシリアスな場面では緊張半端ないもん。

口数少なくてもしっかりと居場所や存在を確立できている人はすげーなーといつも思うよ。

口数が多くなっちゃうのは寂しさの裏返しなんて言うけれど、それはなんかイヤだな。

冒頭に書いた通り性格だから如何ともしがたいことではあるけれど。

今入ってる現場の照明さんとは仲良く色々話せるので何も考えなくてよくて大助かり。

今日もパソコンの話しよ。

口数多めで頑張ってきます。

ではでは。

とてもやさぐれている。

見知らぬ人が少しでも自分の進行方向をカットしようものなら

「どけよ。。。」

と思ってしまう小さな自分になっている。

「どけよ!」

ではない。

「・・・どけよ。」

である。

この違いが何なのかと説明はできない。

ニュアンスで察して欲しい。


そういえば以前はこれがそのままニュアンス込みで口から音声で出ていた。

当時お付き合いしていた人に随分と窘められたものだ。

今思えば何をやっていたんだろうと思う。

トラブルになるなら誰も巻き込まないようにすることが大前提だ。

厳密に言えばそんなことは不可能なんだけど、少なくとも今一緒にいる人への配慮を含めて言動行動するべき。

べきってのは嫌いだけど。

そもそもトラブるなよって話はまあおいといて。

巻き込んでしまう人がいるってことは独りぼっちじゃないってことだ。

それはとても幸せだけど窮屈でもある。

普通は幸せだけを感じるものなのかな。

今は窮屈が大きく自身を覆っているのだと思う。

だから他人に優しくなれないのだ。

身内以外はただのゴミ。

そんな感覚で永らく生きていた時期のツケが回ってきたのか。


「貴方にとって存在意味のない人でも、その人の周りからは必要な存在なんだよ」

という当たり前の言葉もなかなか効くが、

「自分もいつか貴方にとってゴミになる時がくるかもしれないね」

という言葉のが強烈よね。

大事な人は大事な人。

そこは変わらないけども難しいよなぁ。

本日の目標、フェードアウト頑張る。

いってきますー。




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