ユヅキ小劇場

カテゴリ: ブログ・日記

演技って何だろう。

そんな哲学みたいなことをたまーに考える。

役者やってる人はよく考えるんだろうか。

演技というもんに触れ始めた頃は何となく

「何かやらなきゃいけない」

もんだと勝手に捉えていた気がする。


役の違いや役割は違えど根本的には台本と役は与えられる。

その与えられたモノをどう自分がやるか。

これがその内、

「他者ではなく自分だったらどうやるか」

こういう思考が出てくるのだ。

何なら他者との違いを出すことこそが自身の個性やアイデンティティーに繋がるのだ!

みたいな勘違いね。

もちろんオーディション勝ち抜くとかゴリゴリの競争現場でそれが求められている場なら全然健全な思考なんだけども。

もう出ることが決まっていて役割も与えられている、それでいて競争しなければいけないわけではない現場ならば、その思考は割りと作品にとって不純物なんだよな。

そりゃどんな作品でも爪痕残したいとか自身の成長を考えたいとかの向上心は全然あって良いんだけど、それは個人の都合でやってほしいところ。

あくまで作品は作品としての完成を考えてその場の自分を創っていってほしいなぁと思うのだ。

自分だったらこうやるー!

とか

こうすることが俺という役者なんだー!

とか

この台詞をこんな風に解釈してこう見せるんだぜー!

とか基本全部いらねーのよ。

正確にはそう思いながらやるってのが要らない。

やるのは全然いいし、成立してるなら勿論大アリ大歓迎。

ダガシカシ。

まずやることはそこに在る台本と台詞をそのまままっすぐやることなんじゃねーかな。

野球のピッチャーが最初はストレートから覚えて投げるように。

始めたてでいきなり変化球投げるやつなんて殆ど使えねーだろうし。

それが個性で大成しちゃうタイプなんです自分!だって天才だもの!な人はそれでもいいかな。

でもそう考えてるわけでもなさそうなのに、最初から変化球を一生懸命投げようとする人がまあまあいるよねって話。

もしくはどうやったら変化をつけられるか?が主流の思考になってる人。

まずは台本にあるモノだけをまっすぐそのままやってみないかい?

自分なりにとか個性をとか抜きにただそのままやってみる。

まずはそこからなんじゃないのかなーと。

それをすっ飛ばして台本に書かれていない言葉をイキイキと発したり、ト書きにない動きをいきなりやったりする人は、大抵台本に書かれていることは疎かにする。

それでもそんなことないよ!って言い切れる人はもう作家を舐めてるよね。

役をもらったらもうその言葉は自分だけの所有物みたいな扱いする奴マジキライ。

自分の言葉なんだから、言いづらかったら言い換えても意味は通ってるからいいよね?

自分の気持ち的にこの言葉は出てこないんだよねー?

何なら台本と違う言葉ずっとしゃべってるけどそのこと自体気付かなかったー?

演出から何も言われないからオッケーなんだー?

舐めてるだろ。

自分はそんなことないと自信を持って、もしくはそんな奴いるの?とホントに思える人はいいさ。

でもそんな感じの人でも実際の芝居では作家や作品の言葉を蔑ろにしてることも往々にしてあるよ。

間違っちゃうのはいいのよ。

噛むのもまあダメだけどいいのよ。

問題なのは

書かれている言葉に真っ直ぐ全力で向き合って飲み込んで理解しようとして誠実であろうとしているか否かなのよ。

その上で噛んだとか言い間違ったとか演出上どうしても変えなきゃいけないとかは全然いいのよ。

その努力、、、てかそれが最低限の役者の仕事だと思ってるけど、それをしないで全力で芝居をやってます!とか言う奴マジキライ。

この台詞いつも出てこないんだよねー。

この台詞言いづらいんだよねー。

ネタとして身内で言ってる分には全然オッケー。

ネタでも何でもなくホントにお客さんにまでそのまま持ち込んじゃうならそりゃもう怠慢なのよ。

言いづらい台詞なら100回間違えないように意識しながらゆっくり音読すりゃ誰だって言えるようになる。

ダメなら200回。

ダメなら300回。

言えるようになるまでやりゃ口からスルスル出るようになるゼ。

そこまでやって出ないんならそれはもう役者に向いてないってことではないかね。

台詞をしっかり言えることだけが役者としての魅力じゃない!って例もそりゃあるけどもよ。

各々それぞれの勝手じゃん?ってのも重々承知してる。

俺個人の考え方じゃん?

そりゃそうさ。

でもさ。

もったいないじゃん?

頑張ってないわけじゃない。

一生懸命じゃないわけじゃない。

手を抜いてるわけでもない。

でも舐めてるってことに気付いてもいない。

いい表情もする。

いい声も出す。

いいテンションまで上がる。

グッとくることもある。

でも。

言葉が滑る。

作家の想いや狙いをすっ飛ばしてる。

役者のスキルを足すことだと勘違いしてる。

結果伝わるものは本来届くはずのモノの何割になっちゃうんだろう。

届かないところじゃなく届くはずのところまで行けないまま終わっちゃうのは寂しいと思うのよな。

仕事とは関係ない俺個人の思考でした。

ではではまた。










眠い。

久しぶりにこんなに眠い。

なぜかって?

徹夜してそのまま本番やってこれから通し稽古に音だしに行くからさ!

いや、まったく誇れることではないんだけどね。

むしろダメなやつなんだけど。

無茶してる自分に酔っちゃう時期って皆あるのかな?

俺は多分ゴリゴリにそのクチだった。

周りや大事な人の心配をよそに、、、もしかしたらその心配さえも鬱陶しいくらいに変換して頑張ることこそがカッコいいみたいな。

うわぁ、、、

かっこわりぃ、、、

恥ずかしいよ。

そういうところが今の現状を招いた大きな要因であることは間違いない。

もっとああしとけば。

もっとこうしとけば。

タラレバは犬も食わないとは言わないけど、感覚的にはそんな感じ。

言ってもしょうがないけど言いたくなっちゃうのが人間の性っつーか。

何ならタラレバが通用していたらどうなっていたかなんて幸せな妄想しちゃうことすらあるんだゼ?

相当痛いゼ?

でもまだ大丈夫。

ちゃんとこの痛みを感じている。

怖いのは痛くなくなることだ。

何ともなくなることだ。

何ともないと思おうとすることだ。

身体だけ生きながらゆっくりと内面から死んでいく、、、それはイヤだ。

もちろん身体を大事にすることは大前提だけども。

心にずっとモヤがかかってんだよなぁ。

テンションあがんねーんだよなぁ。

しょうがないよねー

って諦めて着地したくない。

誰しもがいつかはどこかに着地して根をはって生きるんだろうけど。

俺はまだ飛んでいたい。

降りたいと思える場所を作れるまでは低空だろうがバタ足だろうが浮いていたいんだ。

そう。

これが寝ていない時のテンションでモノを書くってことだ。

夜中にノリにノッて書いた脚本を次の日たっぷり寝た後に読んだ時襲いくるあのなんとも言えない地獄を味わうってことだ。

じゃあ書くなよって?

寝たら電車乗り過ごすから書いてんだよ!

文句あるかー!

読んでくれてありがとう。

またね。




慣れていくのが怖い。

慣れたくもない。

飯は食うし寝るし生きることはやめないけれども楽しくはない。

そんなことを思っていても何にもならないのはそりゃ解ってるけども。

どうにもなぁ。

やることはやるし、面白いこともあるけどなぁ。

これが果たして思い込みなのか本当なのか。

また年を越しちゃうな。ふと。ふと。

小劇場ではブース(音響照明の調整室)が客席の後ろで一体化しているようなところも少なくない。

当然スペース的にも狭いことが多く、どうしたって音響と照明のオペレーターさん同士の距離は近くなる。

パーソナルスペースなんて言葉があるように、人は一定の距離内に他人がいるとどうしても気になるもので。

自身も例に漏れずとても気になるタイプ。

元々人見知りなので割と同空間にいる人間の心情や機微に敏感なのだ。

考えすぎなところもあるけれどもね。

少なくとも数日から一週間程度は一緒にいることが多くなるので、ある程度は話せるようになっておきたいというのが本音。

とはいえ初めましてだとねぇ。

探りを入れるにしても仕込みや場当りの段階ではお互いにメインは仕事作業になるので、そんな心の平穏をゲットすることに神経を使うわけにもいかず。

そうなると結局ちゃんと話せるのは初日終わってからとかになるのよ。



この取っ掛かりの一言目を発する時の緊張感といったらもう。。。

気楽に話しかけてやんわり会話するだけじゃん?

理屈は解るんだけど。

なかなか人見知りマンには厳しいものがあるね。

とりあえずガンガン話して反応見て対応考えるマンなのでまあ何とかんとかやってこれたけども、これからもそううまくいくとは限らない。

そんな演劇関係ない部分に脳内のリソースを割いてるってことが人にバレてないといいけど。

人付き合いは難しいね。

ではではまた。

舞台音響に関わらず、舞台照明さんにもあるのが、

「プランやチーフとオペレーターが別」

というパターン。

プランはその名の通り全体をプランニングする人。

チーフは現場で主に軸となってセクションを回す人。

オペレーターは実際の機器のコントロールを担う人。

ザックリいうとこんな感じ。

小劇場サイズだとチーフとオペレーター二人でやることは殆どないんじゃないかな。

プランとオペレーター二人体制はよくあるけども。

その場合は大抵サウンドチェックや場当たり、ゲネくらいまではプランが実際のオペレートを見聴きしながら調整を二人でやったりする。

完全にプランだけ立ててあとはオペレーターにお任せ!って時もたまーにあるけど、これは割りとオペレーターは困るかな。

まあ任せてくれるという時点で自分なりにやっていい(もちろんプランの意図や意向を実現させるために)わけだから変に考えなくてもいいのだろうけどね。

自分はプランだけやることはあまりないが、例えば予算の問題や勉強の意味で自分以外の人がオペレートすることがないこともない。

そんな時の心境をまあ一言でいうと

「不安」

これに尽きる。

別にオペレーターができるできないとかそういうネガティブな不安ではない。

それはもうやるとなったらみんなちゃんとやってくれるからね。

じゃあ何が不安というと

「自分が何とかできないことがあり得る」

という一点。

本番に毎回ついているわけでもないし、すぐに連絡が取れるとも限らないわけで。

そんな時に何かトラブルがー!なんて考えるとそりゃ不安よ。

任せるしかないのは解ってる。

でもでも。

元々何事も自分でやった方が良い!というタイプなのでなかなか人に任せることに慣れががていないというか。

そんなこともあって、自分がオペレーターの時はプランナーさんの気持ちを変に想像してしまうというワルいクセが発動するのだ。

「実は納得いってないんじゃないか」

「実は怒ってるんじゃないか」

「妥協してんじゃないか」

等々ネガティブ思考のオンパレード。

自身がプランナーの時はそんなこと思わないんだから、その思考がおかしいなんてのは解るんだけどなぁ。

あれ?

結局プランナーでもオペレーターでも不安なんだな。

自分への自信がないんだろうなぁ。

とはいえ仕事はちゃんと。

いってきますー。

ではではまた。

生理現象は抑えられないことが大半。

ダガシカシ。

それでも抑え込まなければならない時がある。

そう。

本番中だ。

更にいうなら静かなシーーーンとした時だ。

音響をやっていると割りと音やノイズには敏感になるんだが、人間が発する音も漏れなく気になる訳で。

お客さんの咳やくしゃみはしょうがないよねーと思う。

そりゃ気にして我慢してくれたらありがたいけれども、故意ではないのだからそこはもう諦めるもの。

これが自分となると話が変わってくる。

「オイオーイ!空間の音をコントロールする(大袈裟)この俺が世界にノイズを撒き散らしてどうするんだい!」

なんてことを考えてるわけじゃないけど、割りと近しい感覚はあります。

要は不要な音でお客さんの集中力を切りたくないだけ。

ダガシカシ。

わたしは割りと咳持ち。

長らく悩まされている鼻炎の影響でちょいちょい咳の野郎が出現しようとするのだ。

薬で抑えたりあれやこれやと対策はするものの100%出ないとは言い切れないのがカナシイところ。

だから基本的にはいつも音のプランの中で

「咳ポイント」

なるものをピックアップしておく。

「咳をしても気にならないところ」

つまり爆音が流れていたり演者が言い合いするシーンなどお客さんの耳に大きな音が届いている状態の場所を見つけておくのだ。

お客さんの中にも割りとその辺気にしてくれて、ブリッジ(シーンとシーンの切り替わりなどに流れる音楽)まで待ってから咳やくしゃみをしてくれる人もいる。神。

自身もそんな感じで咳が出そうになると何とか咳ポイントまで我慢するのが通常なのだが、、、

如何せん、咳ポイントが全く無い舞台というのもあるのだ。

最初から最後まで盛り上がるような音楽もやり取りもない静かーな会話劇とかね。

もうこうなるとピンチの連続ですよ。

皆さんもそうだと思うけど、咳やくしゃみの類って我慢するとパワーアップするじゃないですか。

ドラクエとかの「力を溜めている」みたいな。

咳の野郎は小出しにしてガス抜きしてやってもそれ以上のパワーを溜め込みやがるので、開放した時のエネルギーが半端ないのよ。

それを知っているからこそ余計出したらやべー!となるので我慢する。

奴のパワーは増していく。

小出しにして誤魔化す。

無理。

死のループ発生。

一発ドカンと出しちゃえばそれで治まることが多いので咳ポイントさえあれば何とでもなるのだが。

この問題は舞台の仕事をやっていくなら常にどのセクションにも付きまとうこと。

ブースが完全に隔離されてる劇場ならいいけど小劇場ではなかなかね。

そんなわけで何か良い咳対策(即効性)があれば教えてください。

割りと切実です。

ではではまた。




演劇などの舞台でお客様を迎え入れる時間帯に流れている音楽「客入れ」。

音楽に限定されず、効果音であったり環境音であったりと芝居の内容や演出次第で様々なモノが使われる。

中には無音なんて舞台も。

意味のある無音なら良いけれど、大人の事情で無音にせざるを得ないなんて時は何だか悲しくなるのはご愛嬌。

客入れの音で気を付けたいのは

「不快にならないこと」

この一点。

もちろん意図的にそういう狙いでやって欲しいという時は別だけど、基本的には快適な、、、というより「特に何も気にならない」のが第一かな。

「あ、この曲知ってるー!」

とかは全然いい。

「この選曲は芝居本編と何か関係あるのかな?」

なんて深読みしてくれるのも全然いい。

気を付けるのは

「うるせーな(音量的な意味で)」

とかの基本的な部分。

人によっては曲と曲の間の無音が気になるって人もいる。

これは好みだと思うんだけど、確かに市販されているCDアルバムとかをそのまま流すと曲間が長いなーと感じることは多い。

その辺はちょこっと削ったり、場合によっては一繋ぎにMIXしてみたり。

著作権云々もあるので一概には言えないんだけども。

客入れ客出しの選曲や内容を全く考慮しない人も割りといるので、その辺りはホントに各々それぞれとしか言えないかな。

あんまり尖ってガチガチに考えすぎるのも良くないけど、ある程度は芝居本編にいい意味で影響を付与できるようなものだといいなーとは思っている。

まあ中には全く聴いてないなーってお客さん層の時もあるけどね。

とにもかくにもやれることを最大限に。

そう在りたいね。

口数なんてのは性格に依存するものなので各々それぞれとしか言いようがない。

自身はというと、今現在は多い部類に入ると思う。

話好きかと言われたらそこは自分でもよくわかんないかな。

というのも学生時代は

無口こそが己のアイデンティティー!

みたいなとこがあったので。

要は中二病ね。

実際には独りぼっちはイヤだなと思っていたと思う。

でもそんな心を覆う勢いで

自分とはこういう人間だ!

という思い込み?を完遂しようとしていた気がする。

何なら孤高孤独こそカッコいいと考えていたのかも。

そんなのは創作やマンガアニメの世界の話なのにね。

一人じゃなきゃ強く在れない。

他人を頼るのは弱きものだ。

根拠も何もなくそういう感覚で生きていたなぁ。

文字で書くとマジデキエタクナルネ。

正直今でも口数多くしてる時は無理してる時ってことがあったりなかったり。

割りと沈黙が苦手なのでとりあえず何か喋っとこうと口から音を発しちゃう感じ。

元々ガツガツ突っ込む系の人見知りマンなのでとりあえずで喋るのは苦じゃないのだ。

まあこういう「適当な合間を埋める為だけの実のない話」をスルスルとやってきたのが枝分かれの自身を作り上げたのだろう。

逆に話さなきゃならないシリアスな場面では緊張半端ないもん。

口数少なくてもしっかりと居場所や存在を確立できている人はすげーなーといつも思うよ。

口数が多くなっちゃうのは寂しさの裏返しなんて言うけれど、それはなんかイヤだな。

冒頭に書いた通り性格だから如何ともしがたいことではあるけれど。

今入ってる現場の照明さんとは仲良く色々話せるので何も考えなくてよくて大助かり。

今日もパソコンの話しよ。

口数多めで頑張ってきます。

ではでは。

とてもやさぐれている。

見知らぬ人が少しでも自分の進行方向をカットしようものなら

「どけよ。。。」

と思ってしまう小さな自分になっている。

「どけよ!」

ではない。

「・・・どけよ。」

である。

この違いが何なのかと説明はできない。

ニュアンスで察して欲しい。


そういえば以前はこれがそのままニュアンス込みで口から音声で出ていた。

当時お付き合いしていた人に随分と窘められたものだ。

今思えば何をやっていたんだろうと思う。

トラブルになるなら誰も巻き込まないようにすることが大前提だ。

厳密に言えばそんなことは不可能なんだけど、少なくとも今一緒にいる人への配慮を含めて言動行動するべき。

べきってのは嫌いだけど。

そもそもトラブるなよって話はまあおいといて。

巻き込んでしまう人がいるってことは独りぼっちじゃないってことだ。

それはとても幸せだけど窮屈でもある。

普通は幸せだけを感じるものなのかな。

今は窮屈が大きく自身を覆っているのだと思う。

だから他人に優しくなれないのだ。

身内以外はただのゴミ。

そんな感覚で永らく生きていた時期のツケが回ってきたのか。


「貴方にとって存在意味のない人でも、その人の周りからは必要な存在なんだよ」

という当たり前の言葉もなかなか効くが、

「自分もいつか貴方にとってゴミになる時がくるかもしれないね」

という言葉のが強烈よね。

大事な人は大事な人。

そこは変わらないけども難しいよなぁ。

本日の目標、フェードアウト頑張る。

いってきますー。




継続は力なり。

子供の頃からよく聞く言葉。

好きなもんなら言われなくても続くでしょって思ってた。

実際はそんな簡単なものではなくて。

自分はホントに物事が続かない。

思い付くことは腐るほどあるのよ。

アイディアということだけで言ったらまあまあスペック高いと思ってる。

だがアイディアなんてものは実証して結果を出してこそ意味のあるもの。

思い付いてコレ面白いなんてのは程度の違いこそあれ誰でも出来ること。

そこからソレが面白いことなんだと示して初めて意味や価値が出るのだ。

言い訳がアイディアを上書きしていく毎日。

誰のせいでもなく己の裁量。

やりたいことはいっぱいあるとはよく言うけど、果たしてやりたいこととは。

何となくやってみたいけど努力も苦労もなく触りだけ体験できたら満足みたいな感覚のモノを除いていったら、どれだけのやりたいことが残るか。

もちろんこんな風にわざわざ物事重く捉えて思考している時点でダメなのは重々承知。

この思考というのも行動を起こさない理由を作る一部になりえるからね。

とにかく動くってのはホントに真理。

他人の人生を巻き込むようなことならそりゃ思考すべきだが、自身が一人でやりたいことなんてのは失敗しても自業自得で済むし、何なら失敗した経験が今後ソレはやらないと決められる時点で1つの成果みたいなもん。

だから絶対に何かを得られる確証があるんだから、とにかく動いてやってみることがいいことは間違いない。

それでもやらないということは。

まあ怠慢だよな。

今はとにかくやれることをやる。

それだけ。

やるやるー!

おはようございます。

まずは挨拶をしっかりと毎日。

思い返せばホントに毎日物事が続かない。

三日坊主などまだ良い方で、ひどい時はその日の朝に決めたことをその日の夜に破るなんてこともしばしば。

「◯◯をやる」

と宣言すればやるかと思えばそれすらもって1週間とか。

まあいいや

が自分の根本に根付いているのだろう。

これは不味い。

非常に不味い。

そりゃ大事なもん取りこぼすわ。

反省はできる。

自戒もできる。

目標も立てられる。

始めることもできる。

でも続かない。

続かないのよ。

何かのために頑張るってのは詰まるところその何かのせいにしてるってことになりかねないからキライなんだと、全ては自業自得なんて宣って生きてきたけど、それって結局自分以外に責任もなにも負わず楽してきただけなんじゃないかなと思う今日この頃。

で、最終的に迷惑被るのは自分なんだから物事続かなくても自分が困るだけだから続かないのか。

自分を大事にしろって大事な人に散々言われてきたのにこの体たらく。

これも言い訳だな。

動くことしか応えはできないもんな。

動くよ。

我輩は人見知りである。

未だに治らない。

ふと思ったけど、この

「人見知りが治らない」

という表現も下手したら何かしら叩かれるのかな?

「治らない」という表現は「治さなければいけないモノ」と決めつけている!

みたいな。

そんな穿った考えが浮かぶくらいには2021年夏の世界は、正義だか正論だか倫理だかを証明することが全てみたいなところだ。

昔好きでやり込んだタクティクスオウガというゲームで、敵が絶対にこちらを攻撃できない安全を確保してからひたすら石(ゲーム内では武器扱い)を投げていたが、SNS上にはそんなプレイヤーが群れをなしている。

ゲームと現実は違う。

でもSNS上に存在する自分をゲームと同じ仮想プレイヤーの感覚で使っているやつが多い。

結局は想像力。

SNS上で他者に対して何かを投げ掛けたその時点で責任はあるのよ。

面と向かっては言えないなーと思うなら飲み込むのが吉なのよ。

声をあげるのが大事とか宣うならその石を返す場所を明示してから投げてくれ。

投げっぱなしは良くないって人に言う。

責任取れって人に言う。

じゃあ翻って己も同じことを言われてもいいようにしておくのが筋だ。

一番の解決はほっておく。

これに尽きる。

こんなことを書きたかったわけじゃねーんだよな。

人見知りについて書きたかったのよ。

くそう。

行ってきます。

 

 

やれることよりやれない理由を探した方が早い。

これがデフォルトになると途端にアクティブさが失われる。

歳を重ねると新しいことを始めづらくなるのは

やれない理由(リスク)が増えてくるから

これに尽きるのでは。

また大抵の人は年齢を重ねるごとに抱えるモノ(人や肩書き、家族など)が増えてくるので、よく言う

「自分だけの身体ではない」

状態になるしね。

気楽な独り者ですらやれない言い訳を見つけるのには事欠かない。

結局のところ大した損得勘定じゃないのに何故かそれを先んじて思考して足踏みする。

足踏みすると今度は忘れていく方向へ。

毎日色々なやってみたい、やってみようかなが浮かんでくるのに、1ヶ月後に何か一つでも始めていた試しがない。

いや。たまにはある。

あるけども、続いてはいないね。

思い付いてとにかくやってみる。

続くか続かないかってのを考えるのも正直ダメよね。

それもやっぱりやらない方が楽だよなーってなっちゃう。

ここ最近の自己嫌悪における結構な範囲を占めるこのルーティン。

思い付く⇒盛り上がる⇒ちょっと待てよ?⇒続くか?⇒あれもあるしこれもあるし⇒もう少し考えるか⇒まあいいか

まさに負のスパイラル!

単に俺がダメなやつってことかな。

思い付いたらまずはやってみる。

この単純な思考をとにかく定着させること。

これだけできたら随分変わるよな。

そして誰かを巻き込みたくなる己の弱さ。

まずは自分一人で。

さあ場当たりだ。

いってくるぜ。

 

イラついている。

こういう時いつもどうすれば最善の道なのか考える。

相手があやいちなら沸き上がっている感情のままにぶつけるだけ。

だが、普通はそうはいかない。

仕事は一人ではできない。

たくさんの人との関わりがあってこそ成立する。

いい空気というものは存外大切で、座組の空気が悪いとそれはお客さんにも伝わることも往々にしてある。

芝居だけ仕事だけきっちりこなせれば良いということでもないのだ。

目には見えない良い空気というのは少なくとも伸び代につながることを俺は知っている。

馴れ合いではない良い空気というものはなかなかに難しいけども、それが存在する座組は間違いなく良いモノ作りをするだろう。

で、冒頭のイラついた時の話。

※今抱えてるイラつきは座組内の人ではないので悪しからず

イラついてますをきっちり出すことは果たして現場にプラスに働くだろうか。

そりゃマイナスよね。

そうなのよ。

マイナスなのよ。

でもイラつくことってあるじゃん?

ミスは誰にでもあるし、自分だって色々やらかす。

結果的にお客さんにいいモノが届けられるなら俺らの感情やら人付き合いなんかどうでもいいのだ。

そう割りきればイラつくことがマイナスにしか働かないと知っているならイラついても仕方ないという結論になる。

でもイラつくもんはイラつくもん。

みんな上手いことやってんだなぁ。

そんなわけで今現在のわたくしはイラついております。

でもこうして文章で吐き出すことで結構内面の感覚は変わるもんでね。

今は書きながら

「イラついてもどうせやることやらなきゃいけないんだし、ブログ書く時間取れたと思えばいいんじゃね?」

とか思い始めてる。

まあ上手くやる人はこんな誰でも読める身バレ全開のところに書かないか。

となるとまた一つ疑問。

例えばこの文章を俺と関わる人が読んだ場合、どういうことになるんだろうか。

いいことにはならないという予測の元にみんな上手くやろうということになるんだよね。

果たして悪いことになるのだろうか。

、、、、、、、

なるか。

でもそれでずっと引きずることないと思うんだけどな。

直接言わずに他で発散するからよくないのか。

でも直接

「あんたにイラついてるぜぇ?」

と伝えたらアウトでしょ?

てことは、

・イラついても表に出さない

・裏アカ?みたいなので好き勝手発散する

・もはやイラつかないよう達観

という選択肢になる。

、、、、、、、

いやぁムリだな。

どうせイラついたって長くて半日くらいだろうし、何日も続くようならケンカするだろうし、そんなにイヤなことにはならないと思うんだよな。

仲が良くてもイラつくことはあるじゃん?

あとは伝え方か。

イラついていることを態度で示すってのがなかなかね。

「言いたいことあったらハッキリ言えよ」

って都合のいい言葉。

「言いたいことハッキリ言ったら問題が解決すんのか?」

っていう応えも都合のいい言葉。

「言いたいことハッキリ言ってケンカしても結局いいモノが出来て一緒に飯を食える」

これかな。

どうかな?

あ。

イラつき収まった。

さあやることやろう。

おつかれーい。

 

仕込み日の朝は大抵絶望から始まる。

基本的に全て手持ちで行くことの多い自分。

人一人が持ち運びできるキャパなんてたかが知れている。

だが殆どはそのキャパなど軽く超えている物量だったりする。

それでも常に車使って搬入するような人に比べれば全然ないんだけど。

たまにどうしても無理だな、、、という時は前もって持っていき舞台監督さんにセットと一緒に預けるか、最悪劇場最寄り駅のコインロッカーにブチコム。

でもこのコインロッカー作戦はオススメできない。

おそらくは何も起きないとわかってはいても

「明日行ったら機材なくなっているんじゃないか?」

とオチオチ夜も眠れなくなるからだ。

一回預けた日の夜に想定を越える勢いの台風が上陸し、翌日ロッカー内が浸水していたこともある。

怖い。

本来なら搬入用トラックに家まで来てもらって積み込むのが一番なんだが、、、

都内からまあまあ離れたところに住んでいることもあり、なかなか人にものを頼みづらいマンからするとハードルが高いのだ。

それでもよっぽどの物量の時はお願いすることもあるけども、

「これ、一人でも死ぬ気になれば運べるんじゃね?」

的な絶妙な量だとどうしても二の足を踏んじゃうシャイな思いやりマン。

舞台を成立させるために必要なものなんだから遠慮などする必要はないんだぞ!

それはわかってる。

わかってはいるんだ。

でもよ。

でもよーう。

10分経ったんでまた。

 

 

 

台詞を何となく変える役者に問いたい。

純粋な疑問だ。

脚本には当然その書き手が存在する。

役者からしたらその一行、その一言にどんな思いが込められていて、どれどけの時間や思慮、苦悩があったかは解らないのかもしれない。

解らないのはまあ譲るとして、

同じようにエネルギーを使って解ろうとしてるか?

って話。

何となくで変えている?

言いづらいから変えている?

自分の感情的にその言葉が出てこない?

何なら変わっていることに気付いていない?

俺はイヤだね。

まずは真っ直ぐ、そのままの作家の言葉を入れること。

そのままの作家の言葉を一字一句そのまま口から吐くこと。

その作業をやってから初めて自分を出すんだ。

いきなり「自分は人とは違う」みたいなよくわかんねー感覚で変化球投げようとするんじゃねぇよ。

真っ直ぐできっちりストライク取れる自信と確信持ってから自分の持ち味発揮しろよ。

個性とかそんなもん狙って先に捻り出すもんかね。

意図も意味もエネルギーも使わずふんわり言い回し変えて、「これが自分の芝居」。

わかんねーよ。

もしかしたら、台詞を一字一句きっちり言えることって大事なことではないのか?

そこがスタート地点じゃなくても良い芝居が出来るんか?

ニュアンスや雰囲気さえ合ってれば大差ないもんできると普通に思っている人は結構いるのかな?

特別なこと言ってないと思ってる俺が意外と間違ってるってセンもある。

そんなことないだろとは言い切れない程度には見てきている。

変えることがダメって訳ではない。

その本を書いた作家に面と向かって胸を張って

「こういう意図と意味があって、あなたのエネルギーに負けないエネルギーで変えました!」

と言えればいいんだ。

それならいいんだよ。

ただそんだけなんだよ。

「台詞を一字一句間違いなくお客さんに伝えられる」

これって標準装備なんだとずっと思ってきたんだ。

ひのきのぼうとぬののふくなんだと。

リアルな話、どうなんかな?

 

眠い。

だが気分は悪くない。

寝る前に好きなヤツと話したからか。

電話キライを公言しているヤツに付き合わせてしまい、申し訳ない思いで心がホットココアを飲んだみたいな感覚だゼ。

贅沢言うなら布団に転がってのんびり話すなら天気のいい予定も何もない真っ昼間だったらもっと最高。

深夜だとどうしても闇に引きづられるからね。

電話自体は苦手なんだが、まあ相手に寄るということ。

その先に仕事が絡むとどうしても慎重にならざるを得ず、また意外と心証を気にする質の俺。

人からどう思われようが関係ないね!

これは仕事をする上ではなかなかの摩擦を生む。

トラブル上等を謳ってはいるが、実際のところ楽しめるトラブルなら歓迎ってだけで、建設的でもないただのドンパチみてーなトラブルは望んじゃいない。

だから言うほどめんどくせーことにはここんとこはなってはいないはず。

まあ俺個人の感覚では。

迷惑かけていいのは友達まで。

友にはまさに迷惑以外何物でもないマイルール。

一部改めようとは思っているが、基本線は変わんないかな。

マジで申し訳ないなとは思う。

結局、

そんな友達がいるんだゼ!

ってことを自覚、もしくは他に知らしめたいだけなのかもな。

ケツの収まりがワルい話さ。

オーライだ。

いってくるぜ。

 

 

今現在、絶賛自分がキライ期間中。

これまで生きてきてそれなりに色々と自己嫌悪に陥ることや自分自身が許せないなんて中二病も拗らせてはきたが、今回のはまあまあしんどいレベル。

とはいえ、深度でいったらこんちゃんのことに比ぶれば些末なことではある。

比較にもならんくらいなのではあるが。

問題はこの自己嫌悪が

「明確な事象や事柄があるわけではない」

ということ。

そう。

「特別何もないのに」沈むのだ。

鬱というものがどういう感覚かはわからないし、何なら精神科医には舐めてると怒られる始末なので鬱ではないはず。

今のところしっくりくるのは

「五月病がデフォルトになった自分が気持ち悪い」

という感じ。

そうなんだよなー。

仕事はしてる。

演劇にも関わってる。

音はいじってる。

音は出してる。

でも生きてる気がしない。

作品を作ってないからか?

俺のやりたい好きなことって。

それすら曖昧になって毎日の流れの中でやらなきゃいけないことをこなすだけ。

ありがちな話よな。

マンガとかなら自分リセットして海にでも繰り出すストーリー。

でも向かってるのは稽古場。

楽しくないわけじゃない。

そういうわけじゃない。

でも身体が重い。

さあいくゼ!って立ち上がれない。

まるで萎びたマックのポテトの気分だゼ。

さあ行こう。

イかないなんて選択肢はないのだから。

あの頭のてっぺんから飛び出しそうな魂を命がけで抑え込んであやいちに全部ぶつけてたような芝居。

あれがやりてーのかな。俺。

 

俺は台詞覚えは良くない方だと思う。

だから基本的なやり方は至極単純。

とにかく音読。

ひたすら音読。

覚えきるまでに大体目安は100回。

実際には100回いく前に頭には入るが、口に馴染むまではなかなか。

普段頭で考えて口から吐く言葉は意識したものであればあるほど台詞臭くなる。

逆に何も考えないで反射で出るような言葉はとてもナチュラルな響きとなめらかな口滑り。

ナチュラル芝居、大層な芝居、ファンタジーな芝居など色々ジャンルはあれど、どんな言葉を吐く時でも口と細胞に台詞が馴染んでいればあとは感情やら演出やらで変化していくだけ。

だから自分の台詞覚えの原則は

「とにかくアホみたいに口から吐き出して台詞を口に馴染ませる」

ことからスタート。

演出する時も基本線はそうやってもらう。

台本の一字一句をお気楽に変化させて気にも留めない奴は好きではない。

本に込められた想いを大切に扱う。

 

 

失踪してーなーなんて思った2019年冬。

結局何も変わらず今に至る。

あの時の想いは何だったのか。

何も変わらず、というのは全てに適用されている。

人への想いも消えたい気持ちも己への戒めも。

それと同時にジクジクと染み渡る自身への嫌悪感。

そんなあらゆる感覚を抱えながら仕事は仕事だとやることがオトナだなんてぬるい顔して息してる。

ふと気がつくとどうでもいいことに時間と思考を放棄してただの肉の塊と化す。

こんなもんを抱えながらずっと生きてきてる奴はすげーんだな。

俺は良くも悪くも周りに恵まれてきたんだなと今更。

そのありがたいチート任せでやってきた末が今ってこと。

好きに生きるってただの思い込みと迷惑行為なのかもな。

やり方間違えたくねーなー。

ケツの収まりが悪い話さ。

 

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